猫と藤田嗣治

「おまえなしでは生きてゆけない」とまでレオナール・藤田は猫を愛した。

彼は生涯に5人の妻を娶ったがその殆どが彼に愛想を尽かして出て行ったそうだ。

彼は言う,「可愛がれば大人しくしているが、そうでなければ引っ掻く。女にヒゲと尻尾をつけたら猫だ」と。

彼をパリ画壇で名を成さしめた「タビスリーの裸婦」では猫が重要な位置を占めている。




アルザスの猫

アルザスのコルマールに滞在した時、アルザスのワイン街道をドライブした。

葡萄畑の中に教会を中心にした小さな村落が点在する。

村の奥まった広場にシュバイツアーの家が忽然と現れたり、

教会の屋根のてっぺんに「こうのとり」の巣がつくってあったりする。

ボージェ山脈の小高い山の頂にジャン.ルノアールの「大いなる幻影」のロケ地に成った
オーケニスブール城が有る。 
雄大だ。

そして,或る村落で地のワインを飲んでいたら猫に出会った





 


猫と「ノルウエイの森」

村上春樹が「ノルウエイの森」を執筆したのはギリシャ・ミコノス島である事はよく知られている。 彼がミコノス島へ長期滞在する当たり頭を痛めたことがあった。 長年愛しんで来た二匹の愛猫の存在だ。 一匹は直ぐに引き取り手が付いたがもう一匹の身元引き受け人が中々見付からなかった。 村上春樹は半ば強引に講談社のT氏に引き受けて貰った。 その間に書き上げた「ノルウエイの森」は大ベストセラーに成った。 幾分かの猫の功が有ったに違いない、彼はその猫を「福猫」と呼んだ。 その福猫がT氏の元に預けられたのが12歳の時、以後、猫好きのT氏一家に可愛がられ9年後に21歳で長寿を全うした。

その長寿猫に捧げられたのが「村上朝日堂はいかに鍛えられたか」である。




猫と竹内栖鳳

山種美術館が所蔵している人気作品「斑猫」。

栖鳳が沼津に滞在した折、通り掛った八百屋の店先で見掛けてその仕草が気に入り、

店の女将さんと交渉して絵と交換して貰った猫がモデルと言われています。

人を射る、人が魅入る、そん目が魅力的です。

栖鳳らしい繊細な線が猫の繊細さを見事に表現しています。

栖鳳、60歳の作品です。




猫と荒井篁一郎の牡丹

荒井篁一郎(1899-1934)の作品。

荒井篁一郎は鶴岡の人、東京美術学校卒業後、故郷の画壇に生涯を尽くした。

「猫と牡丹」、何とも幻想的な作品。

不自然迄に見開いたものうげな瞳、観る人を媚びるでもなくじっと見据えている。

何時迄も何時迄も目を逸らさない、やがて、恍惚の境地に誘い込まれるのだ。 

何かを訴えているようでもあり、何かを懇願しているようでもある。

荒井篁一郎はどのような生い立ちの人で、どのような生涯を送ったのか、

訪ねてみたい様な気がする。




ピカソの「ドラ・マールと猫」

一寸古い話に成るが、ピカソの絵が108億円で落札され世間が騒いだ。

その絵が「ドラ・マールと猫」だ。

正妻オルガとは険悪状態、恋人マリー・テレーズとも溝が出来始め、

そんなピカソ苦悩の時代に登場したのがドラ・マールだ。

画家であり写真家であり美術に深い見識を持ち、しかも、美貌聡明な彼女は当時の美術界を闊歩していたのだ。

例の「ゲルニカ」の制作過程を記録した事でも知られている。

ピカソの女7人の5番目の女だ。

そのドラ・マールもピカソと関わり合ってから遂に神経衰弱に陥り、

「泣く女」になったのだ。




レオナルド・ダヴィンチの生家の近くで見掛けた猫

フィレンツェからピサに向かって丁度中央くらいにエンポリと言う小さな駅が有る。

其処から30分程バスにゆられて行くとレオナルド・ダヴンチの生家の有るヴィンチ村に着く。

小さな洒落た村だ。

そこの眼目は勿論「ダヴィンチ博物館」、ダヴィンチが描いた設計図を具現化した模型がところせましと展示して有る。

ダヴィンチ博物館からダヴィンチの生家に向かう。

チャオしか判らないイタリヤ語何度聞いても辿り着けない。

イタリヤの山道、清々しくて気持ちがよい。

イタリヤで、まさか、こんな快適なウオーキングが出来るとは夢にも思わなかった。

途中の薮の名から目を光らせているのがビンチ村の猫ちゃんだ。




キジ猫 長谷川リン二郎

長谷川リン二郎(1904-88)

リン二郎は此の猫を描くのに時間を掛けた。

多分、自分が描きたいと思う表情を納得する迄待ったのだろう。

朝から晩迄待ったのではない、6年も待ったのだ。

猫の名前は「タロウ」と言った。

「タロウ」は完成を待たずに死んで行った。

リン二郎は「タロウ」の死後に髭を描き加えた。

如何にも長閑だ、無心だ。

斯く有りたいと思う。

いつか機会が有れば宮城迄行ってこの絵の前に立ちたいものだ。




マネの「オランピア」の足下に黒猫が

よく見ると、オランピアの足をたどって行くと黒猫がチョコンと座っている。

子猫らしい

背景の黒に紛れる黒人の顔と黒猫、それぞれの眼が妖しい光を発している。

マネはどのような意図で此処に猫、それも黒猫を描いたのだろうか。




黒猫の訃報

オランピアの黒猫で思い出した黒猫が居る。

幾つかの散歩道の一つの通りの呉服屋の前で足下にすり寄って来る黒猫が居た。

時にはショウウィンドウの仲で気持ち良さそうに居眠りをしていた。

そんな時はウインドウをコツコツ叩いてもピクリともしない。

その黒猫が半月前からめっきり姿を現さなくなった。

昨日呉服屋の前を通り掛ったらお婆さんがでてきたので尋ねてみた。

「ああ、クロは半月前に亡くなったのよ。」

「あれは野良猫だったんだよ、それがあんなに懐いて・・」

散歩の楽しみが一つ減った。




ピカソの猫 2

アッチ見てホイ! コッチ見てホイ!

「お腹に子供がいるんだ! 静かにしろい! コッチは食わなきゃならねんだ!」




ルノアールと猫 その2

ルノアールの描いたジュリー・マネの肖像「猫を抱く少女」、

何故女の子の名字がモネかと言うと、

彼女の母はマネの弟と結婚したのです。

お母さんの名はペルト・モリゾ、有名なモデルです。

ついでにペルト・モリゾの絵、




ルノアールと猫 その3

ルノワールには珍しい男性の裸体、可愛い女の子や福やかな女性の裸体は見慣れているが・・・

白っぽい青色の少年の裸体も中々色っぽい、エロっぽい。

困惑してる様な媚びている様な猫の表情とが相まって甘美な雰囲気を醸し出す。




熊谷守一の「ねこ」

富裕層の出身ながら極度の貧乏生活に甘んじ画壇の仙人」と言いうるs呼ばれた熊谷守一。

彼は身近な小さな動物たち、その小さな命に優しい眼差しを向けた。

それも次々に子供を亡くすと言う不幸を耐え忍んだ姿であろうか。

大胆な直線と面で構成された「猫」、何と愛くるしい猫らしい猫であることよ。




熊谷守一の「ねこ」 2

もう一つ。

いかにも心を許している、安心し切った姿だ。




清宮質文の「夕日と猫」

勝手に想像する。

宇宙から地球を、そして、人間を見据えている黒猫。

哀れんでいる様な慈しんでいる様な大きな瞳、深く澄んでいる。

頭の上の白い小さな丸は何だろう?

月かも知れない。

夕陽と月、天文の知識は全くないが、現実にはあり得ない事だろう。

そして上の方に黒い斑点、これは星屑かも知れない




ミロ「アルルカンの謝肉祭」

極度の貧困生活の中で飢餓状態に陥り幻覚を見る。

「長時間、部屋の壁を見続ける。 やがて、その壁の上に幻想的な影が像が浮かんで来る。」

そんな時期の作品のひとつが「アルルカンの謝肉祭」。

いろんな動物が出現する。

その中に猫が居る。

ガイド役を買っているようだ。




ゴヤの「棍棒で殴り合う二人の男」と「いがみ合う猫」

ゴヤの画集を捲っていたらこんな二つの絵を見付けた。

同じ発想に基づいて描いたにに違いない。

煎じ詰めると、人間も猫も同じ生き物、

切羽詰まれば自我を剥き出しにする。

人間も猫も本性は違わない、そう云ってる様な気がする。




ゴーギャンと猫 1

長閑なプロバンスに生きる人々、

皆表情はおおろかだけど皆何か思ってる、考えてる。

この近景の小母さんの目付き顔付、「大丈夫かいのぅ」。

あたかも破局を予感しているようでもある。

猫までが沈思している。 

ゴッホと共同生活をした頃のゴーギャンの心境だろうか。 




マネの猫2

マネ「スペオンの衣装を着けて横たわる若い女」

女として熟れつつある少女、気怠そうに物欲しげに横たわる。

初々しい白い肌、女性としての肉体が既に整っている。

よく見ると左右の眼の表情が異なる。

右目は知的、左目は官能的だ。

無心にじゃれる猫、猫がじゃれているのは蜜柑だろうか。

猫の眼光は野生に満ち満ちている。




ゴーギャンと猫 2

子煩悩なゴーギャン

猫にも視線が優しい

この猫のお腹は大きいようだ

色彩も含めた構図の妙




猫とフジタ2

藤田嗣治に猫の絵はNETに公開されているものだけでも万とある。

その中でもこの絵が好きだ。

まあ、私の好きなフジタの猫の絵でベストテンに入る。

5人の美女の肢体に伍して一歩も引けを取らない白猫、

もう一匹の斑猫も絶好な位置で存在感を示している。 


  




ゴーギャンと猫 3

ゴーギャンは人物の間にいろんな動物を入れて描いている。

犬、猿、鶏、当然猫も居_る。

生きとし生けるものとして仲間のなのだろう。

此処には猫と犬が居る。

夫に全てを任せ切った妻、自信満々の夫、

辺りには文明の器具らしいものは何も無い。

そんなものは必要としない。

素朴だが心身ともに満ち満ちている。

猫も犬も穏やかだ。

向こうからゴーギャンがやって

来る。

何やら遠慮し勝ちに戸惑ってる風でもある。

この楽園に踏み入って、

この団欒を壊して良いのだろうかと。




ボナールと猫 1

ボナールも猫を寸景に取り入れた作品が多い。

青年から中年に成りかける頃のボナールはこんな激しい絵を描いた。

衝立がもう男と女を違った世界に容赦なく遮断する。

子猫がせめてもの救いなのか。




ボナールと猫 2

色彩の魔術師の片鱗が輝く。

女性の眼よりも青い猫の眼。




ルイス・ウェインと猫 1

ルイス・ウェイン(1860年8月5日 - 1939年7月4日)

沢山の猫ぼ絵を残したイギリスの画家、イラストレーター。

National Cat Club の議長として活躍した事もある愛猫家だ。

ガンに冒され結婚の3年後に死去してしまう妻のエミリーは

ピーターという猫をかわいがっていた。

ウェインは妻を癒そうピーターにいろんなポーズをとらせて描いた。

そんな事から描き始めた彼の擬人化された猫は世の評判になり、

100余りの児童書の挿絵の執筆、

そして、新聞、専門誌、雑誌と様々な場所で作品が掲載され脚光を浴びた。

如何にも可愛い、愛くるしい猫達だ。

妻への愛情が滲み出ている。




ルイス・ウェインと猫 2

晩年には彼の人気も翳りを見せ始め、

同時に、精神的な不安定さが増して行った。

彼の家系に繋がる精神病を発病し統合失調症を患う。

その痕跡を作品中にたどることができる。




スタンランと猫

1900年代の初頭、

キャバレー黒猫(en:Le Chat Noir)に集う芸術家達の一人で、

黒猫のポスターを始め多くのポスターやイラストを手掛けた。

偽名で 社会悪を痛切に批判したものもおおい。




国芳と猫

江戸時代末期、

老中水野忠邦による天保の改革で浮世絵も役者絵や美人画が禁止された。

これに反発した国芳は悪政に対して風刺を込めた浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけ溜飲を下げた。

国芳は無類の猫好きで常に数匹、時に十数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いたまま絵を描いたと言う。

家にはがあり、死んだ猫の戒名が書いた位牌が飾られた猫の猫の仏壇があり、

過去帳まであったという。




竹下夢二の黒猫

夢二は黒猫の絵を多く描いている。

「黒船屋」シリーズは彼の代表作であろう。

夢二の描く黒猫はヴァン・ドンゲンの描く黒猫に良く似ていると言われている、

事実、ポーズも構図も盗作?に近い。

夢二は言う「ヴァン・ドンゲンの描く黒猫ほどすぐ猫を連想させる女はあるまい」

潤いの有る瞳の奥に魔性が潜んでいる。




ボナールと猫 3

変幻自在な色彩の配置、

光と色の協奏曲だ。

隠し絵の如きかくされてる如き二匹の猫の存在が

穏やかさ、長閑さの限りを物語る。




ローランサンと猫

1944年、彼女が61歳の頃に描かれた無邪気に戯れる猫、

ナチに家屋を没収され批評家達にも見捨てられていた頃、

ひっそりと耐えてキャンバスに向かっている彼女の心境が偲ばれる。

それでも尚、情愛、情熱、共感、誠実と言った夢の世界が垣間見られるのだ。




シャガールと猫

パリのホテルの一室から見たパリの風景だろう。

暖色をふんだんに使った風景に「愛」が散りばめている。

パラシュートで空から舞い降りる人間、逆さまになって煙を吐く汽車、

横になって歩いている男女、そして人間の顔を持った猫。

パリを前に横を向く、その眼差しの方角は故郷のヴィテブスク。

肉体は猫に化してもひたすら故郷のヴィテブスクを想うのであろう。

ただ、郷愁の漂うその眼光は醒めている、単純ではない。

冷酷であり知的でもある。




稲垣仲静の猫

己の官能の強さを必死に抑えようとしているのか。

背中のあたりに今にも爆発しそうなエネルギーが溜まっている。

媚びそうで媚びない眼光、冷酷で傍観的ですらある。

この絵を眺めれば眺める程、華麗な中に孤独感が押し寄せて来る。

稲垣仲静は克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として将来を期待されながら、25歳の若さで夭折した。




菱田春草の猫

菱田春草

岡倉天心の愛弟子であり当時としては革新的な画法に挑戦したが惜しまれながら夭折した。

後に画友の大観をして「春草の方が私よりうまかった」と言わしめた。

この黒猫も凡猫ではない。

その瞳には未来を射据える挑戦的な光が有る。




山城隆一と猫

山城隆一

イラストレーターとして数々の広告賞を受賞。

猫をテーマにした個展を内外で開催。

広告の分野に猫の絵を執拗に取り入れ新境地を開いたと言ってよいだろう。

彼の描くネコの絵は、

「ネコからヒトへのメッセージである」

と言っているがこの絵は何を伝えようとしているのか。




高橋行雄の猫

猫を描いて25年、まだまだ描き足りないののだそうだ。

世界各地で個展開催、各地の猫好きとの交流が盛んとか。

この黒猫、何処を見つめて何を考えているのだろうか。

蒼く澄んだ思慮深い瞳だ。




月岡芳年の猫

幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。

12歳で歌川国芳に入門、江戸川乱歩や三島由紀夫などの偏愛のために「芳年といえば無惨絵」と思われがちであるが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画にわたる。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。昭和期以降に発展してきた漫画や劇画にも通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。

何とも艶かしい。

無心に猫を愛おしむ女に対し猫は無心ではないようだ。




安藤美香の猫

まだ新鋭の水墨画家らしいが、

まだまだ不安一杯なのであろうか、眼や顎の辺りにそんな表情が。

タッチに非凡なセンスを感じるがスケッチがまだまだなのか。

全くの素人判断だ。




或る日のナナ




ロートレックの猫

ロートレックらしい諧謔に満ち満ちている。

如何にもお人好しな犬に対して、

「なんだい、この野郎!」

と馬鹿にしてかかっている猫の目付き、髭付きは如何にも傲慢である。

と言いながら何処か猜疑心が漲り、何時でも逃げ出せる様に身構えて居る。

馬鹿共は尻尾を振って寄ってくるが、お天道様は苦々しいのだ。

何か書きなぐってあるが、なんて書いてあるのだろう。

文字が読めないのが残念だ。




小茂田青樹と猫

小茂田青樹

夜になって其の野性の本能を発揮する猫の生態を見事に描き出した。

爛々と見開く眼、耳を垂れ吸盤の如く足腰を地と一体化してズズズと音も無く忍び寄る。

小茂田青樹は松本楓湖門下で終生ライバル関係となる速水御舟と同門、

42歳で早逝したのと、地味な作風で左程人口に膾炙していないが、

叙情溢れる写実描写に評価は高い。




岡村宇太郎

豊かな感性と恵まれた才能で世の脚光を浴びながら、

孤高の道を歩んだ岡村宇太郎、

彼の残した何点かの猫に描かれた一点を凝視するまなこの鋭さ、

他に迎合しない信念の強靭さ深遠さを感じぜずにはいられない。

床の間画家と言われ るままに人生を全うした。




シモーニュ・シニョレ と猫

2、3日前、「嘆きのテレーズ」を懐かしく観た。 若き頃この映画を観てシモーニュ・シニョレに恋憧れたものだ。 当時、沢山の若手の女優がゴロゴロしていたのに何故だか判らない。 あの当時は気が付かなかったが、黒猫が存在する。 極めて重要な存在だ。 昔の誰かの絵の連想出来る構図でも有る。 残念ながら黒猫の出現する場面を私のパソコンでは録画出来なかった。




在りし日のアイ、聖子、エリ。




ロン・バーンズと猫

ロン・バーンズ、熱心な動物愛護家だ。

専らホームレスの動物たちの写真を撮って肖像を描き、 其の収益をシェルターに寄付している。

この猫もそんな境遇の猫だったのかもしれない。




山口華楊の黒猫

山口華楊は黒猫が好みの様だ。 猫の魔性、獰猛性、野獣性を黒で強調している。 豹の模様を付ければ豹に変貌し、大きさも豹の大きさになる。 




モーリス・ドニの猫

顔付は如何にも知性で溢れているけど、身体の線、縞模様の線の一端にも女の情念が籠っている。 そして、其の情念が線となって猫にも連なっている。 猫には何事も判っているのだ。 ドニはボナール、ヴュィヤールなどと共にナビ派と称されている。


    

猫と藤田嗣治

「おまえなしでは生きてゆけない」とまでレオナール・藤田は猫を愛した。

彼は生涯に5人の妻を娶ったがその殆どが彼に愛想を尽かして出て行ったそうだ。

彼は言う,「可愛がれば大人しくしているが、そうでなければ引っ掻く。女にヒゲと尻尾をつけたら猫だ」と。

彼をパリ画壇で名を成さしめた「タビスリーの裸婦」では猫が重要な位置を占めている。


 


アルザスの猫

アルザスのコルマールに滞在した時、アルザスのワイン街道をドライブした。

葡萄畑の中に教会を中心にした小さな村落が点在する。

村の奥まった広場にシュバイツアーの家が忽然と現れたり、

教会の屋根のてっぺんに「こうのとり」の巣がつくってあったりする。

ボージェ山脈の小高い山の頂にジャン.ルノアールの「大いなる幻影」のロケ地に成ったオーケニスブール城が有る。 雄大だ。

そして,或る村落で地のワインを飲んでいたら猫に出会った




猫と「ノルウエイの森」

村上春樹が「ノルウエイの森」を執筆したのはギリシャ・ミコノス島である事はよく知られている。 彼がミコノス島へ長期滞在する当たり頭を痛めたことがあった。 長年愛しんで来た二匹の愛猫の存在だ。 一匹は直ぐに引き取り手が付いたがもう一匹の身元引き受け人が中々見付からなかった。 村上春樹は半ば強引に講談社のT氏に引き受けて貰った。 その間に書き上げた「ノルウエイの森」は大ベストセラーに成った。 幾分かの猫の功が有ったに違いない、彼はその猫を「福猫」と呼んだ。 その福猫がT氏の元に預けられたのが12歳の時、以後、猫好きのT氏一家に可愛がられ9年後に21歳で長寿を全うした。

その長寿猫に捧げられたのが「村上朝日堂はいかに鍛えられたか」である。




猫と竹内栖鳳

山種美術館が所蔵している人気作品「斑猫」。

栖鳳が沼津に滞在した折、通り掛った八百屋の店先で見掛けてその仕草が気に入り、

店の女将さんと交渉して絵と交換して貰った猫がモデルと言われています。

人を射る、人が魅入る、そん目が魅力的です。

栖鳳らしい繊細な線が猫の繊細さを見事に表現しています。

栖鳳、60歳の作品です。




猫と荒井篁一郎の牡丹

荒井篁一郎(1899-1934)の作品。

荒井篁一郎は鶴岡の人、東京美術学校卒業後、故郷の画壇に生涯を尽くした。

「猫と牡丹」、何とも幻想的な作品。

不自然迄に見開いたものうげな瞳、観る人を媚びるでもなくじっと見据えている。

何時迄も何時迄も目を逸らさない、やがて、恍惚の境地に誘い込まれるのだ。 

何かを訴えているようでもあり、何かを懇願しているようでもある。

荒井篁一郎はどのような生い立ちの人で、どのような生涯を送ったのか、

訪ねてみたい様な気がする。




ピカソの「ドラ・マールと猫」

一寸古い話に成るが、ピカソの絵が108億円で落札され世間が騒いだ。

その絵が「ドラ・マールと猫」だ。

正妻オルガとは険悪状態、恋人マリー・テレーズとも溝が出来始め、

そんなピカソ苦悩の時代に登場したのがドラ・マールだ。

画家であり写真家であり美術に深い見識を持ち、しかも、美貌聡明な彼女は当時の美術界を闊歩していたのだ。

例の「ゲルニカ」の制作過程を記録した事でも知られている。

ピカソの女7人の5番目の女だ。

そのドラ・マールもピカソと関わり合ってから遂に神経衰弱に陥り、

「泣く女」になったのだ。




レオナルド・ダヴィンチの生家の近くで見掛けた猫

フィレンツェからピサに向かって丁度中央くらいにエンポリと言う小さな駅が有る。

其処から30分程バスにゆられて行くとレオナルド・ダヴンチの生家の有るヴィンチ村に着く。

小さな洒落た村だ。

そこの眼目は勿論「ダヴィンチ博物館」、ダヴィンチが描いた設計図を具現化した模型がところせましと展示して有る。

ダヴィンチ博物館からダヴィンチの生家に向かう。

チャオしか判らないイタリヤ語何度聞いても辿り着けない。

イタリヤの山道、清々しくて気持ちがよい。

イタリヤで、まさか、こんな快適なウオーキングが出来るとは夢にも思わなかった。

途中の薮の名から目を光らせているのがビンチ村の猫ちゃんだ。




キジ猫 長谷川リン二郎

長谷川リン二郎(1904-88)

リン二郎は此の猫を描くのに時間を掛けた。

多分、自分が描きたいと思う表情を納得する迄待ったのだろう。

朝から晩迄待ったのではない、6年も待ったのだ。

猫の名前は「タロウ」と言った。

「タロウ」は完成を待たずに死んで行った。

リン二郎は「タロウ」の死後に髭を描き加えた。

如何にも長閑だ、無心だ。

斯く有りたいと思う。

いつか機会が有れば宮城迄行ってこの絵の前に立ちたいものだ。




マネの「オランピア」の足下に黒猫が

よく見ると、オランピアの足をたどって行くと黒猫がチョコンと座っている。

子猫らしい

背景の黒に紛れる黒人の顔と黒猫、それぞれの眼が妖しい光を発している。

マネはどのような意図で此処に猫、それも黒猫を描いたのだろうか。




黒猫の訃報

オランピアの黒猫で思い出した黒猫が居る。

幾つかの散歩道の一つの通りの呉服屋の前で足下にすり寄って来る黒猫が居た。

時にはショウウィンドウの仲で気持ち良さそうに居眠りをしていた。

そんな時はウインドウをコツコツ叩いてもピクリともしない。

その黒猫が半月前からめっきり姿を現さなくなった。

昨日呉服屋の前を通り掛ったらお婆さんがでてきたので尋ねてみた。

「ああ、クロは半月前に亡くなったのよ。」

「あれは野良猫だったんだよ、それがあんなに懐いて・・」

散歩の楽しみが一つ減った。




ピカソの猫 2

アッチ見てホイ! コッチ見てホイ!

「お腹に子供がいるんだ! 静かにしろい! コッチは食わなきゃならねんだ!」




ルノアールと猫 その2

ルノアールの描いたジュリー・マネの肖像「猫を抱く少女」、

何故女の子の名字がモネかと言うと、

彼女の母はマネの弟と結婚したのです。

お母さんの名はペルト・モリゾ、有名なモデルです。

ついでにペルト・モリゾの絵、




ルノアールと猫 その3

ルノワールには珍しい男性の裸体、可愛い女の子や福やかな女性の裸体は見慣れているが・・・

白っぽい青色の少年の裸体も中々色っぽい、エロっぽい。

困惑してる様な媚びている様な猫の表情とが相まって甘美な雰囲気を醸し出す。




熊谷守一の「ねこ」

富裕層の出身ながら極度の貧乏生活に甘んじ画壇の仙人」と言いうるs呼ばれた熊谷守一。

彼は身近な小さな動物たち、その小さな命に優しい眼差しを向けた。

それも次々に子供を亡くすと言う不幸を耐え忍んだ姿であろうか。

大胆な直線と面で構成された「猫」、何と愛くるしい猫らしい猫であることよ。




熊谷守一の「ねこ」 2

もう一つ。

いかにも心を許している、安心し切った姿だ。




清宮質文の「夕日と猫」

勝手に想像する。

宇宙から地球を、そして、人間を見据えている黒猫。

哀れんでいる様な慈しんでいる様な大きな瞳、深く澄んでいる。

頭の上の白い小さな丸は何だろう?

月かも知れない。

夕陽と月、天文の知識は全くないが、現実にはあり得ない事だろう。

そして上の方に黒い斑点、これは星屑かも知れない




ミロ「アルルカンの謝肉祭」

極度の貧困生活の中で飢餓状態に陥り幻覚を見る。

「長時間、部屋の壁を見続ける。 やがて、その壁の上に幻想的な影が像が浮かんで来る。」

そんな時期の作品のひとつが「アルルカンの謝肉祭」。

いろんな動物が出現する。

その中に猫が居る。

ガイド役を買っているようだ。




ゴヤの「棍棒で殴り合う二人の男」と「いがみ合う猫」

ゴヤの画集を捲っていたらこんな二つの絵を見付けた。

同じ発想に基づいて描いたにに違いない。

煎じ詰めると、人間も猫も同じ生き物、

切羽詰まれば自我を剥き出しにする。

人間も猫も本性は違わない、そう云ってる様な気がする。




ゴーギャンと猫 1

長閑なプロバンスに生きる人々、

皆表情はおおろかだけど皆何か思ってる、考えてる。

この近景の小母さんの目付き顔付、「大丈夫かいのぅ」。

あたかも破局を予感しているようでもある。

猫までが沈思している。 

ゴッホと共同生活をした頃のゴーギャンの心境だろうか。 




マネの猫2

マネ「スペオンの衣装を着けて横たわる若い女」

女として熟れつつある少女、気怠そうに物欲しげに横たわる。

初々しい白い肌、女性としての肉体が既に整っている。

よく見ると左右の眼の表情が異なる。

右目は知的、左目は官能的だ。

無心にじゃれる猫、猫がじゃれているのは蜜柑だろうか。

猫の眼光は野生に満ち満ちている。




ゴーギャンと猫 2

子煩悩なゴーギャン

猫にも視線が優しい

この猫のお腹は大きいようだ

色彩も含めた構図の妙




猫とフジタ2

藤田嗣治に猫の絵はNETに公開されているものだけでも万とある。

その中でもこの絵が好きだ。

まあ、私の好きなフジタの猫の絵でベストテンに入る。

5人の美女の肢体に伍して一歩も引けを取らない白猫、

もう一匹の斑猫も絶好な位置で存在感を示している。 


  




ゴーギャンと猫 3

ゴーギャンは人物の間にいろんな動物を入れて描いている。

犬、猿、鶏、当然猫も居_る。

生きとし生けるものとして仲間のなのだろう。

此処には猫と犬が居る。

夫に全てを任せ切った妻、自信満々の夫、

辺りには文明の器具らしいものは何も無い。

そんなものは必要としない。

素朴だが心身ともに満ち満ちている。

猫も犬も穏やかだ。

向こうからゴーギャンがやって

来る。

何やら遠慮し勝ちに戸惑ってる風でもある。

この楽園に踏み入って、

この団欒を壊して良いのだろうかと。




ボナールと猫 1

ボナールも猫を寸景に取り入れた作品が多い。

青年から中年に成りかける頃のボナールはこんな激しい絵を描いた。

衝立がもう男と女を違った世界に容赦なく遮断する。

子猫がせめてもの救いなのか。




ボナールと猫 2

色彩の魔術師の片鱗が輝く。

女性の眼よりも青い猫の眼。




ルイス・ウェインと猫 1

ルイス・ウェイン(1860年8月5日 - 1939年7月4日)

沢山の猫ぼ絵を残したイギリスの画家、イラストレーター。

National Cat Club の議長として活躍した事もある愛猫家だ。

ガンに冒され結婚の3年後に死去してしまう妻のエミリーは

ピーターという猫をかわいがっていた。

ウェインは妻を癒そうピーターにいろんなポーズをとらせて描いた。

そんな事から描き始めた彼の擬人化された猫は世の評判になり、

100余りの児童書の挿絵の執筆、

そして、新聞、専門誌、雑誌と様々な場所で作品が掲載され脚光を浴びた。

如何にも可愛い、愛くるしい猫達だ。

妻への愛情が滲み出ている。




ルイス・ウェインと猫 2

晩年には彼の人気も翳りを見せ始め、

同時に、精神的な不安定さが増して行った。

彼の家系に繋がる精神病を発病し統合失調症を患う。

その痕跡を作品中にたどることができる。




スタンランと猫

1900年代の初頭、

キャバレー黒猫(en:Le Chat Noir)に集う芸術家達の一人で、

黒猫のポスターを始め多くのポスターやイラストを手掛けた。

偽名で 社会悪を痛切に批判したものもおおい。




国芳と猫

江戸時代末期、

老中水野忠邦による天保の改革で浮世絵も役者絵や美人画が禁止された。

これに反発した国芳は悪政に対して風刺を込めた浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけ溜飲を下げた。

国芳は無類の猫好きで常に数匹、時に十数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いたまま絵を描いたと言う。

家にはがあり、死んだ猫の戒名が書いた位牌が飾られた猫の猫の仏壇があり、

過去帳まであったという。




竹下夢二の黒猫

夢二は黒猫の絵を多く描いている。

「黒船屋」シリーズは彼の代表作であろう。

夢二の描く黒猫はヴァン・ドンゲンの描く黒猫に良く似ていると言われている、

事実、ポーズも構図も盗作?に近い。

夢二は言う「ヴァン・ドンゲンの描く黒猫ほどすぐ猫を連想させる女はあるまい」

潤いの有る瞳の奥に魔性が潜んでいる。




ボナールと猫 3

変幻自在な色彩の配置、

光と色の協奏曲だ。

隠し絵の如きかくされてる如き二匹の猫の存在が

穏やかさ、長閑さの限りを物語る。




ローランサンと猫

1944年、彼女が61歳の頃に描かれた無邪気に戯れる猫、

ナチに家屋を没収され批評家達にも見捨てられていた頃、

ひっそりと耐えてキャンバスに向かっている彼女の心境が偲ばれる。

それでも尚、情愛、情熱、共感、誠実と言った夢の世界が垣間見られるのだ。




シャガールと猫

パリのホテルの一室から見たパリの風景だろう。

暖色をふんだんに使った風景に「愛」が散りばめている。

パラシュートで空から舞い降りる人間、逆さまになって煙を吐く汽車、

横になって歩いている男女、そして人間の顔を持った猫。

パリを前に横を向く、その眼差しの方角は故郷のヴィテブスク。

肉体は猫に化してもひたすら故郷のヴィテブスクを想うのであろう。

ただ、郷愁の漂うその眼光は醒めている、単純ではない。

冷酷であり知的でもある。




稲垣仲静の猫

己の官能の強さを必死に抑えようとしているのか。

背中のあたりに今にも爆発しそうなエネルギーが溜まっている。

媚びそうで媚びない眼光、冷酷で傍観的ですらある。

この絵を眺めれば眺める程、華麗な中に孤独感が押し寄せて来る。

稲垣仲静は克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として将来を期待されながら、25歳の若さで夭折した。




菱田春草の猫

菱田春草

岡倉天心の愛弟子であり当時としては革新的な画法に挑戦したが惜しまれながら夭折した。

後に画友の大観をして「春草の方が私よりうまかった」と言わしめた。

この黒猫も凡猫ではない。

その瞳には未来を射据える挑戦的な光が有る。




山城隆一と猫

山城隆一

イラストレーターとして数々の広告賞を受賞。

猫をテーマにした個展を内外で開催。

広告の分野に猫の絵を執拗に取り入れ新境地を開いたと言ってよいだろう。

彼の描くネコの絵は、

「ネコからヒトへのメッセージである」

と言っているがこの絵は何を伝えようとしているのか。




高橋行雄の猫

猫を描いて25年、まだまだ描き足りないののだそうだ。

世界各地で個展開催、各地の猫好きとの交流が盛んとか。

この黒猫、何処を見つめて何を考えているのだろうか。

蒼く澄んだ思慮深い瞳だ。




月岡芳年の猫

幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。

12歳で歌川国芳に入門、江戸川乱歩や三島由紀夫などの偏愛のために「芳年といえば無惨絵」と思われがちであるが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画にわたる。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。昭和期以降に発展してきた漫画や劇画にも通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。

何とも艶かしい。

無心に猫を愛おしむ女に対し猫は無心ではないようだ。




安藤美香の猫

まだ新鋭の水墨画家らしいが、

まだまだ不安一杯なのであろうか、眼や顎の辺りにそんな表情が。

タッチに非凡なセンスを感じるがスケッチがまだまだなのか。

全くの素人判断だ。




或る日のナナ




ロートレックの猫

ロートレックらしい諧謔に満ち満ちている。

如何にもお人好しな犬に対して、

「なんだい、この野郎!」

と馬鹿にしてかかっている猫の目付き、髭付きは如何にも傲慢である。

と言いながら何処か猜疑心が漲り、何時でも逃げ出せる様に身構えて居る。

馬鹿共は尻尾を振って寄ってくるが、お天道様は苦々しいのだ。

何か書きなぐってあるが、なんて書いてあるのだろう。

文字が読めないのが残念だ。




小茂田青樹と猫

小茂田青樹

夜になって其の野性の本能を発揮する猫の生態を見事に描き出した。

爛々と見開く眼、耳を垂れ吸盤の如く足腰を地と一体化してズズズと音も無く忍び寄る。

小茂田青樹は松本楓湖門下で終生ライバル関係となる速水御舟と同門、

42歳で早逝したのと、地味な作風で左程人口に膾炙していないが、

叙情溢れる写実描写に評価は高い。




岡村宇太郎

豊かな感性と恵まれた才能で世の脚光を浴びながら、

孤高の道を歩んだ岡村宇太郎、

彼の残した何点かの猫に描かれた一点を凝視するまなこの鋭さ、

他に迎合しない信念の強靭さ深遠さを感じぜずにはいられない。

床の間画家と言われ るままに人生を全うした。




シモーニュ・シニョレ と猫

2、3日前、「嘆きのテレーズ」を懐かしく観た。 若き頃この映画を観てシモーニュ・シニョレに恋憧れたものだ。 当時、沢山の若手の女優がゴロゴロしていたのに何故だか判らない。 あの当時は気が付かなかったが、黒猫が存在する。 極めて重要な存在だ。 昔の誰かの絵の連想出来る構図でも有る。 残念ながら黒猫の出現する場面を私のパソコンでは録画出来なかった。




在りし日のアイ、聖子、エリ。




ロン・バーンズと猫

ロン・バーンズ、熱心な動物愛護家だ。

専らホームレスの動物たちの写真を撮って肖像を描き、 其の収益をシェルターに寄付している。

この猫もそんな境遇の猫だったのかもしれない。




山口華楊の黒猫

山口華楊は黒猫が好みの様だ。 猫の魔性、獰猛性、野獣性を黒で強調している。 豹の模様を付ければ豹に変貌し、大きさも豹の大きさになる。 




モーリス・ドニの猫

顔付は如何にも知性で溢れているけど、身体の線、縞模様の線の一端にも女の情念が籠っている。 そして、其の情念が線となって猫にも連なっている。 猫には何事も判っているのだ。 ドニはボナール、ヴュィヤールなどと共にナビ派と称されている。