残念バンコク記6


20050926

バンコクの日本人が行きそうな店、料理店などは何処にもだが、
日本人向けのタウン誌が置いてある。
非常に木目細かい情報が載っている。
さぞかしバンコク在住の日本人達に重宝されているだろうと思う.
勿論、無料だ。
その一つを捲っていたら、
「船で廻るタイ寺お遍路」と言うのを見付けた。
なにかゆったりした気分が味合えそうだ。

少し早起きして散歩などして体調を整える。
フラフラする感じも大分遠のいて来た。

BTSの駅で降りて漫画チックな地図を頼りに歩き出す。
地図からの感覚では歩いて一分、そんな感じだったが結構歩く。



これ以上はないような庶民的な物売りの店を幾つも越えて奥へ奥へ、
入り組んだ高速道路の奥底深く、
地下のような感じで船着場があった。

小冊子には30分置きに乗合船が出てると書いてあったが、
もう40分待ってるが出発の気配はない。
下流の方にもう一つ船着場がある。
2,3人の人の待ち人?は船頭と顔見知りなようだ。
思い立って時計の針を示しながら船頭に尋ねる。
船頭は何か言ってるが判らない。
小冊子を示す、「此処へ行きたいんだ」
一緒に並んでいた男達が小冊子を覗き込む。
「これには日本語しか書いてない、タイ語も英語も無いじゃないか」
一人の男は英語が話せる。
お寺の写真をみて判ったようだ。
任せておけ、と言うように胸を叩く。
「あと10分で出発だ」
「料金は7バーツ」
と両指で「7」を作った。
一船便をおろぬいた様だ。
しかし、日本人向けの小冊子にタイ語も英語も無いのは、
編集者の日本人意識過剰かも。

不思議な事に出発する時、船はほぼ満員だった。





快音というより轟音を立てて船が動き出す。
次々に川べりの風景が描き出される。
お世辞にも美しい川ではない、生活が流れてくる。
水量は豊か、流れが重い。
浮草の多さが目に付く。
けたたましいエンジン音も長閑な川辺の風景に吸い込まれる。



一番寺に着く。
船着場はお寺の裏口らしい、人影も全くない。
入り口が判らない。
本堂の裏側らしいところを右往左往してると、
子供を抱いた裸足の男が寄って来た。
何やら言ってるがトント判らない。
「付いて来い」と言う手振りの後を付いて行くとお寺の中庭に出た。
ウロウロしている私を見兼ねてわざわざ出て来たらしい。
修行中の僧侶のようだ。





結構大きなお寺だが参拝者は私一人。
この春に四国巡礼を済ませたばかりだ。
タイの巡礼コースと書いてあったので、多少、そんなのを期待していたが、
四国巡礼のようなお参りの人々を案内するような標識のようなものは何もない。
旅行コースとか散歩コースとかではないようだ。
たまたまかも知れないが、お参りしてる人も居ない。





境内を散策して船着場に戻る。
水の流れに音がある。
それ以外に音が無いのだ。
何時やって来るか判らない船を待つ。
こんな時の為に単行本を用意してきている。
暫くして轟音がとどろき乗合船がやって来た。
今回は30分置きの時間を守っているようだ。


ものの5分も掛からないで二番寺。
一番寺よりもはるかに規模が大きい。





露店の様なものが立ち並び、参拝人も多い。
平日の真昼間なのに若い女性の姿が目に付く。



大きなお堂の中はお祈りの最中、
厳粛にお経が流れる。
一列に並んだ僧侶を前にして大勢の人が座り込んでいる。



お祈りを終えた老若男女が三々五々器を抱えて表に出る。
何か霊験厳かな食べ物でも持ち帰るのかと思ったら、
彼らは近くの木の根元に注いでいる、水のようだ。



三番寺への船を待つ。
仲々、来ない、もう30分は過ぎただろう。
皆、悠然と待っている。

 

傍らの露店は何かの占いらしい。
暫く観察していたら、随分と長い時間を掛けている。
日本などの露店の占いとは違うようだ。
もっとも、私は占いの経験は無い。
パンフレットを見ると、ここは占いが良く当たるお寺と評判らしい。
そんな関係だろうか、宝籤の売り場がずらりと並んでいる。
中国でもそうだったが、概して東南アジア人は占いや籤を好む。
占いと籤は親戚みたいなものなのだろう。

 

船着場の目前、此処にも生活がある。
その内に男の漕ぐボートが着いて男は中へ消えた。
我々が想像する以上にロマンチックな生活が営まれているのかも知れない。




三番寺











立派な仏像の前で人々が敬虔な祈りを上げる。
先ほどのお寺とはお経の音が異なる。
日本でもいろいろなお経があるがその類なのだろう。
こちらのはお説教かもしれない。

部屋の片側に黒い壷のようなものが並んでいる。
中を覗くとお賽銭だ。
見ていると、その一つ一つにお賽銭を投げ入れている。
お賽銭箱は別にあったからお賽銭箱とは違った意味が有るのだろう。



お賽銭は小さな容器に両替出来るようになっている。



お賽銭、灯明、蝋燭、線香、かたちは違うが内容は日本のお寺参りと変わらない。
同じ仏教でも、
その伝播途上でその土地土地独特のかたちに進化を遂げたのだろう。
場所によっては退化変化もあるだろうが、その基本は変わらない。



この辺りのお寺が日本のお寺と最も違うのは、
商売臭さの無い点だ。
日本ならば、このくらいの規模のお寺では必ずお守りとかお札とか並んでいる。
東南アジアの地方は貧富の差が大きいと言われている。
その極めて貧と思われる山村で、
吃驚するほどの規模のお寺に出会うことがある。
お寺に対しての住民の懐の開き方が日本とは違うのだろう。
私などは、お寺とはお葬式の時だけにお世話になるところ、と思っているが・・・
敬虔な人々にとって、お祈りは生活の一部なのだろう。

何処のお寺にも犬猫が右往左往している。
それも、やっと歩いているような老猫、老犬が多い。
生き物を大事にする教えとどうバランスを取って来たのだろうか。
そして、これからどうするのだろうか。
既に限界を越えたように思う。
一寸油断をすると糞を踏む。

炎天下で次の船を待つ。
丁度お昼時、船頭もお昼なのだろう、待てど暮らせど船はやってこない。
流石に待ち切れなくなった。
生気も左程残っていない。
三番寺までで止ーめた。



帰りのバスで目の前に座った女性、一寸、失敬した。
よく手入れがされている太くて硬そうな髪、
まさしく東洋人だ。

つづく