イタリア記4
ローマ1

朝、少し早めにチェックアウトしにカウンターヘ行く。
今朝はおじいちゃんの番だ。
英語が全く駄目なおじいちゃん、一瞬不安が過ぎる。
おじいちゃん平然とパソコンをいじりだした。
Windows95 の画面が出ている。
「私もこれをいじってるよ」
と言ったが通じているかどうか。
「そうか そうか」
って感じで、
「一寸待ってろよ、直ぐ出てくるから」
と言っているらしい。
ところが、仲々画面が動かない。
「このカードは駄目だ」
と私のクレジットカードに対し文句を言いだした。
こんな時の為に用意していたVISA、JCBを順に出したが、
皆駄目だという。
汽車の時間がだんだん迫ってくる。
それならと、財布を広げて、マルク、ドル、円、フランどれでもいいから現金でと、
生憎とリラだけ無い、
そのリラでなければ駄目だと言う。
換算とかが面倒なのだろう。
手振り口振りで
「誰か呼べないの」
と言うと、渋々電話して、何か指示を受けたらしい。
もう一度カードを出せだと。
が、やはりうまくいかない。
もう一度電話して、今度は例の旧式のガシャガシャっていう奴を引っ張り出した。
これなら昔とった杵柄で解決、と思いきや、意外にたどたどしい。
「サインは何処にスンベエ」
って感じで、しげしげ眺め回している。
ともかくサインしたら、今度は、控えがどれだか判らないらしい。
おじいちゃん、暫く弄繰り回していたが一番下の厚い奴を私に渡す。
どうも何時もと感じが違う。
「そっちじゃないの」
と言うと、またモゾモゾ始めた。
時間は刻々と迫る。
ハタと気付いたのは、リュックの奥に昨日使ったカードの控えが或る筈、
そこで解梱だ。
途中からこの騒動に加わった掃除のおばちゃんも手伝ってくれる。
やっと探し出したら、やはり薄い方の奴だった。
「これだ」
って言おうとしたら、息子が駆けつけてきた。
「サンキュウ」もそこそこに外に出ると息子が追いかけてきた。
「これ、あんたのカードでしょう」
危ない、危ない。

駅に駆けつけると、もう列車がホームに入っている。
早起きのお陰で何とか助かった。
席を捜すのが面倒なので、駅員に切符を見せて席を尋ねると、
「この列車じゃない」
と言う。
「そんな筈は無い、良く切符みてよ」
といっても、
「違う」
何かガナっているが全然判らない、「ミラノ」と言う言葉だけ判った。
8時49分の発車なのに、もう8時45分、
「この列車は8時33分、お前のは8時49分だ」
やっと判った、前のミラノ行きが遅れていたのだ。
くわばら、くわばら。
危うく北へ戻ってしまう所だった。


ローマ、テルミニ駅。
ミラノもフィレンツエもローマも、昔の上野駅のように、
今でもそうかも知れないが、
終着駅であり列車が出発する時は逆に引っ返してゆく格好になる。
頭を梳かす櫛の歯のようにホームが並んでいる。
櫛の根元の方が、広場になっていて、
食堂や色々な売店が群れをなしている。
そんな中にあるインフォーメーションはリュック姿でごった返している。
どの窓口も長蛇の列だ。

ベテランは慌てない。
新しい場所に移動する時は必ず、
午前中に着くように予定を組んであるのも、
様子の判らない土地を旅する時に重要な事だ。
例によって市街地図、地下鉄、バスの路線地図を貰い、
今日の宿の位置を書き込んで貰おうとしたら、
「この辺」
と印をつけたのは地図の外だ。
今日の宿は地図をはみ出した処に有るのだ。
ローマのインフォーメーションのお姐さん、顔は可愛いが無愛想この上ない。
何人も何人もの人に同じような事の繰り返しているのだから、気持ちは判る。
「地下鉄の終点の此所で降りて、32番のバスに」
余り、しつこく聞くのも可哀相だ。
ただ、今日は今回の旅で初めてのYH、何となく不安が走る。
これも良くやる手だが、ともかく、手荷物を最低限にして後は全部手荷物預かり所に預ける。
とりあえず、宿の下見に出掛ける事とする。
余りに酷ければ、駅に引き返して、近くの宿を捜せばよい。

ローマのエスカレーターの下りは皆止まっている、
あちこち動いて辿り着いた地下鉄のホームも人で溢れている。
電車の中も一杯だ。
ラッシュ時の東京の地下鉄と同じだが暑さは東京の比ではない。
荷物を置いてきて良かった。
終点で降りて、地上に出る。
東西南北、全く判らない。
バスの停留所も何処だか、どれだか判らない。
チンチン電車も走っている。
暫く様子を見ていると、チンチン電車とバスが共同の停留所になっている。
今度は、同じバスでも右へ行くのか、左へ行くのか判らない。

ユースホステルは世界共通語と思っていたら大間違いだ。
あとのフランスでもそうだったが、
目の前がユースホステルでも判らない人がいた。

リュックを背負った白人のアベックが居たので多分と見当を付けて、
彼等に付いてについて右へ行くバスに乗り込む。
何とかなるものだと自分に言い聞かせる。
が今度は降りる場所が分からない。
ローマオリンピックの時の選手の宿舎をYHにしたと聞いていたから、
昔の代々木のオリンピック村を想像し、
わかり易い誰でも知っている処と踏んでたかをくっていたが、さて困った。
くだんのアベックもキョロキョロ外を見まわしている。
確か時間で20分位とうろ覚えていたので、20分だけ我慢しよう。
ところが5分もして、前の席のおばさんがアベックに話し掛けた。
「ユースホステルは今度よ」
って言ったような気がした。
何かイメージと全然違うが、「ままよ」と降りる。
さっきのアベックともう一組のアベックも一緒に降りた。
一組のアベックは暫くあちらこちら見廻していて、
道の反対側のバス停の方へ向かう。
もう一組のアベックに付いて行くと、
思ったより小さい建物の入れ口の階段に色々な肌の色の若者が屯している。

いきなり日本語で
「今日は」
と声が掛かった。
カウンターの中から少し頭が薄くなった30がらみの、
いかにもイタリア人らしい男が愛想笑いをしている。
「何処から来たの?」
「フィレンチエ」
「いや、違う、日本の何処?」
「静岡県」
「おお、静岡ね、しってるよ」
日本に住んでいたことが有るらしい。
しばらく、世間話をしながらチェックインの手続きをする。
さっき、日本語で「今日は」と言われた時、
今日の宿は此所と、覚悟を決めていた。
何とかなるものだ。

廻りは半ズボンの若者ばかりだ。
「everybody young」
と言うと、男は自分の薄い頭を指差して、
「あんた若い、フサフサよ。 私に少し頂戴、あんた若いヨ」
そんなこと気にするなと励ましてくれたようだ。

だだっ広い部屋に映画で観るようなベッドが二段ずつ6個ある。
洗濯物が部屋を縦断して干して有る。
シャワーを浴びていたのだろう。
みんなパンツ姿だ。
学生時代の寮生活、合宿、
山登りの時の山小屋宿泊の経験も豊富だから大抵の事は驚かない。
ただ、みんなうすらでかくて、刺青したのもいたりして、何となく気色悪い。


シャワーを浴びて、一休みして、さあ、ローマだ。
バス停にバスが沢山来るが乗りたい番号のバスは仲々来ない。
此所はローマ、と自分に言い聞かせると、幾分のんびり出来る。
しかし暑い。
バスと地下鉄を乗り継いでポポロ広場に出る。
一服、私は煙草だけはある時期から止めているので、
一服は必ずビールだから、一服ではなく一杯とすべきかも。
一服してスペイン広場へ。
なんとなんと、30パーセントは日本人、暑さと人いきれでダウン寸前。
ヘップバーンがソフトクリームをしゃぶりながら降りて来た辺りが真正面に見える地べたへ腰を下ろす。
とてもヘップバーンがそこを下りてくるような気配もしない。
ボヤッとしていたら、傍を通る小さなバスを見つけた。





その171のバスはポポロ広場からヴェネツア広場を通り、
ウトウトしていたら終点、そこはコロッセオの裏側だ。
ローマは何処を掘ってもローマ時代の遺跡が出て来ると言う。





暫く、コロッセオの周辺を歩き廻る。
ローマ遺跡はキリが無い。
また同じバスでローマ市街観光しながらポポロ広場へ引き返す。
バス料金は忘れたがせいぜい二、三百円では。

サンタマリアデルポポロ教会、
ベラマンテ、ベルニーノ、カラバッショの絵が並んでいる。
入場無料が泣ける。







せめてものお布施で絵葉書を何枚か買うと、
お金を受け取った牧師さんの最敬礼?には参った。







歩くのは暑いのでバスでピンチアーノ門まで行き、ヴェネト通りを歩いて降りる。
広い通りに比して負けず劣らずの大木、緑いっぱいの並木が連なっている。
格好のレストラン、中央に日本人の4、5人のグループが陣取って、
いかにも此所は俺が見つけたんだと言う感じが鼻に付いて敬遠、
向こうでもホットしてるだろう。
今迄の暑さが嘘のような心地よい並木の通りを更に下ると、
また、格好の店、
ここも日本人が居るが、もう、喉の渇きは限界だ。



緑の爽やかな風が爽やかに吹き抜ける、
そんなレストランで、4、5枚の絵葉書を書いて、
ビールも何杯かお代わりだ。
良い気分で立ち上がりデルミニ駅の荷物を引き出してYHに戻る。

シャワーを浴びると、9時。
ベッドには誰も居ない、人恋しくなって食堂を覗くと、
広い食堂に、点々とグループが歓談している。
全部で30人位、日本人は3人、
もっとも韓国人、中国人とは区別つか無いが、直感だ。
そして、50歳以上はこれも3人、
「YHは元来、これから世間に飛び立つ夢一杯の若者たちの為に作られた施設です。
あなた方中高年は、中高年らしくそれ相応の処へ泊まって下さい」
なんて言われているみたいで何となく肩身が狭い。
食堂の生ビール、3000リラ、また大ジョッキ二杯飲んでしまった。

12時頃、5、6人のグループが帰ってきた。
しばらく、煩かったが、やがて静かになる。
私の上のベッドの奴、やたらに動く、動く度にベッドが軋む。
ウトウトしていたら、上のベッドから何かが私の胸に落ちてきた。
ベッドの木枠のようだ。
まあ可愛いもんだ。
私のビールの後の高鼾に比べれば、木枠の一つ二つどうって事無い。

朝7時、もう連中が動き出した。
部屋から出たり入ったり、ガサガサ、ガサガサやかましい。
食事時間の15分前になると、
もう待ちきれないと言う感じで5、6人のグループが食堂に行ってしまうと、
部屋は嘘のように静かになる。
あとは、白人の一人と二人組、韓国の学生風の二人組、
そして中年の白人、この大学教授の様な顔の中年は長期滞留のようだ。
上野のダンボール族のように、ベッドの廻りはガラクタで一杯だ。
他の若者たちは清潔そのものだ。
隣のベッドの白人青年なぞは、見るからに育ちの良さそうな顔つきと手つきで、
洗濯物をキチンと畳んでリュックに奇麗に詰め込んでいる。
彼は今朝出発のようだ。
シャツの抜けるような真っ白さが印象的だ。

ロシア、フランス、ドイツ、フランス、イタリアと歩いて来て、
最初の
「スパシーバ」から「ダンケ」「メルシー」「グラッツエ」「ボンジュール」「ボンジョルノ」
こうして書いているとこのくらいは出て来るが、
咄嗟の時はヒョイとは出てこない。
それで、私は何処へ行っても、もっぱら
「チャオ」と「サンキュウ」しか使わない、いや使えない。
ここでも、もっぱら、「チャオ」だが、
一人旅をしている連中は無口が多く、
「チャオ」といってもなにかブツブツって返って来るだけだ。
食堂で見渡しても、話しの合いそうな格好な同年輩も見当たらない。
日本なら無口同士でも何回か顔を合わせて、
ポツリポツリとでも話しているうちに共通の話題が見付かるものなのだが、
異国ではそうはいかない。



さて、ヴァテイカン宮殿美術館。
遅くなると長時間待たされると聞いていたので、
早めに出掛けたのに入れ口が判りにくい。
結局広い宮殿の周りを半周位して、丁度8時45分、開館と同時に入館。
そして閉館時間の午後4時半、
警備員に追われるようにヴァテイカンを後にする。
7時間以上居た事になる。
もっとも、この中にはシステーナの礼拝堂と中庭のアポロン像の隣のベンチでの、
昼寝の時間も含まれている。





丹念に見たら一週間はかかると言われているのに殆ど予備知識なしのヴァテイカン、
14世紀位からの歴代の法王のコレクションを中心に20もの博物館、美術館、絵画館、
図書館に収められている。
面白いのは、所要時間別モデルコースが設定されていて、
各部屋の入れ口に色別の標識が付けられている。
例えば、3時間ならBコース、
色は忘れたが赤なら赤の標識の有る部屋を廻れば良いという案配だ。
それとイヤホーン付きの解説書、これが有れば大所は大抵押さえられる。



圧巻は何と言ってもシステーナ礼拝堂、
300坪程の天井一杯に1000人もの人物、



「創世記」の物語が展開される。
高い足場に上り、4年以上もの間ひたすら天井に向かって描き続けた、
ケランジェロの体は怪物のように変形し、
首が前に曲げられなくなってしまい、
手紙を読む時は、手紙を頭の上にかざして読んだと言われている。
まったく凄まじい。

沢山の場面の中から一つと言えば、
私は躊躇なくイヴの誘惑と楽園追放の場面を挙げる。





禁断の木の実に今しにも手を伸ばさんとする活き活きとした二人の輝く肢体、
これと対照的に、
楽園を追放される二人は後悔と悲嘆に満ちまるで別人のように老いやつれ、
足取りも重い。

一つ一つの部屋を丹念に観て来たので、
システーナ礼拝堂に入った時は、もう人が溢れ、
歓声やら呻き声やらに交じり、英語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、
いろんな言葉のガイドの案内が乱れ飛ぶ。
もしヴァテイカンを観る機会が有ったら、
まず真っ先にこのシステーナ礼拝堂に直行すべきだ。
時々、「お静かに」とイタリア語、英語、日本語等でアナウンスがはいる。
その瞬間、静寂が訪れるが、5分もするとまた喧騒の世界、とまたアナウン
ス、こんな事が繰り返される。

天井ばっかり観ているので首が堪らない。
連日の疲れもあってか気が付くと居眠りをしていた。
部屋の床に腰を下ろすと警備員が飛んで来て
「此所に坐っていてはいけません」
と注意される。
部屋の周囲のベンチはみんな一杯だ、一度坐るとみんな長い。
だから席が空くと大変な奪い合いとなる。

正面の祭壇の後ろの壁一杯に描かれているのがこれもミケランジェロの
「最後の晩餐」
キリストを中心にミケランジェロ独特の筋肉の盛り上がった人体の大群像は迫力満点だ。

ヴァテイカンのもう一つの圧巻は、
「署名の間」のラッファエルロの「アテナイの学堂」、



 

ソクラテス、ピタゴラス、プラトン、アリストテレス等々、
ギリシャを中心に古今東西の哲学者、科学者が50人も一堂に会し、
それぞれの人物がそれぞれ歴史に伝えられる様な面影で議論したり、
考え込んだりしている。
右隅にラッファエロの自画像が描き込んである事でも有名だが、
叙情的、劇的にして緻密、壮大、ラッファエロの面目躍如というところか。
私は此所に来るまでこの絵が此所に有ると言う事を知らなかった。





何かで見たが、
ミケランジェロとラファエロがこのヴァチカンでの仕事をしている期間が、
ダブっている時期が有る。
天才二人、別々の部屋とは言え、たまには顔を合わせる事も有ったのではないだろうか。
どんな会話を交わしていたのだろうか。
さぞかし火花を散らしていたことであろう。

続く




    
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