慶州の巻4 石窟庵

エイッ と気合を入れて起き上がる。
一昨日佛国寺まで行って見逃した石窟庵が今日のターゲットだ。

佛国寺でバスを降りて、
さてと見渡すとインフォーメーションの看板が飛び込んでくる。
恐る恐る扉を開くと、
「いらっしゃいませ」
はちきれそうな笑顔に日本語で迎えられる、美人だ。
「どうぞどうぞ」
小さなカウンターの向こうに並んでいるテーブルの一つに案内される。
面と向き合った美人が、
「日本のどちらからいらっしゃったのですか」
「静岡」
「ああ、あの富士山の有る!」
昨日の慶州駅のインフォーメーションと言い、韓国のインフォーメーションの
充実振りには驚かされる。 日本のそれとは段違いだ。
「石窟庵へは、あの緑色のバスに乗って下さい。 発車時間は○時○分、
帰りは○時○分か○時○分が良いと思います。料金は1050ウオンです。
50ウオンは細かいのを用意された方が...」
帰りのバスの時間、乗り方まで教えて頂く。




左右に大小のカーブを30分程登りきると、
三方に視界が開けた大きな駐車場、観光バスが連なって止まっている。





その向こうには、これまた特大の鐘楼。





小学生の団体と前後してしまった。
お下げが可愛い。



10分程ゆっくり歩いて、彼等と間隔を開けると静寂が訪れる。



山懐に抱かれたお堂の中に忽然と現れた、
石窟庵如来坐像、



 

(絵はがきより複写)

荘厳な中に、逞しさ、慈愛、意志の強さが滲み出る。
前後左右の浮き彫りも見事、新羅文化の結晶と言われる文化財だ。
世界遺産にも登録されている世界的な文化財だ。



中国の仏像とも日本の仏像とも、どこと無く異なる、やはり韓国の顔だ。
前に頑丈なガラスが嵌め込んであり、真直には近づけない。
これが、長い期間荒れ果てていて、
1900年、たまたま雨宿りした郵便配達夫によって発見されたとか。



一度、階段を降りかけたが、もう一度引返して如来像を眺める。
たった一人になった私に、優しく微笑み掛けて来る。
何か語り掛けてくれているようでもある。
「いい加減にしなさい」
とでもお仰ってるようだ。

参道の道端、ところどころに大きな甕、覗いて見て初めてゴミ入れと判った。
乙な事をやるものだ。




雁鴨池、
新羅時代の円遊、迎賓館の跡のようだ。
明らかに後世に手が加えられた建物ではあるが、
かって栄華を極めたであろう建造物の柱の遺構、
池の造形に往時の栄華を偲ぶ。





新羅王朝の滅亡の儀式がここでなされたと聞く。
石造りの注水設備跡に当時の生活振りも垣間見られる。



この池の発掘で、正倉院宝物に関連の深い品々が発見されており、
7,8世紀頃の日本との親交の深さを慮る。



池の反対側の木陰で腰を下ろし池を眺めると、
煌びやかな衣装を纏った高官、官女たちの嬌声が聞こえてくるようだ。
そんなこんなが頭の中を駆け巡る。

半月城、
674年、高句羅を倒した意気揚々の文武王が、この城で臣下に善男善女を配し、
宴を張り、月を鑑み、詩を口ずさんだ、新羅全盛の時代だったのだろう。
日本で言う、壬申の乱の前後の事だ。






その新羅王城もただただ草木で覆われている。
絢爛豪華な建物があったと思われる辺りで、リスが追い掛けて来た。
白蝶が舞い、名前も知らない鳥も囀る。

夏草や兵どもが夢の跡
国敗れて山河あり...

がぴったりだ。


半月城を西に横切って城門跡を下ると、
鶏林、
金さんの始祖にまつある伝説の樹林。





深夜、王がけたたましい鶏の声で目を覚ます。
声の方向から不思議な光、光を辿ると、金の箱に眉目秀麗な男の子。
彼が金氏の始祖と言われる。
彼らは、鶏と卵を神聖化し、現在でも食しないらしい。
日本にも、この風習を引き継ぐ村落が有ると聞く。

鶏林の樹林の間から、東洋最古と言われる天文台、せん星台、を眺める。



この天文台は70ウオン切手の図柄になっている著名な文化財だ。


宿に戻り、釜山でお土産に頂いた海苔をつまみにビールを飲んでいると、
表通りが、なにやら、騒がしい。
何かのデモだ。



列の前後に警官の列。
昨日の丁君の話を思い出す。
彼は学生の時はデモに参加し、兵役の時は警官側だったとか..

つづく
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