公州の巻1

帰りがけに挨拶を、と声を掛けると白髪の老人が出て来た。



彼は日本語を話す。
顔にも歴史が刻み込まれている。
何か話を聞いてみたかったが思い止まる。
話せば長いことになりそうだ。

公州への行き方を尋ねる。
「バス停へ行って、公州行きに乗りなさい」
それは判ってる、薄汚れた私の格好を見て、旅慣れていると思ったのだろう。

案の定、バス停でハングルの氾濫に戸惑う。
「公州」と書いたメモを窓口に差し出し、切符は手に出来た。
次は、どのバスが公州行きか判らない。
ま、何とかなるものだ。

バスに乗ると、今度は運転手が何か言ってるが、
まるで判らない。
運転手も不承不承顔だ。
公州行きは間違いないようだが...
ま、何とかなるだろう。

地図を見ると、扶余から東北へ33kmの辺りに公州とある。
磁石は間違いなくその方向を示している。
長閑な田園地帯、低い丘陵地帯、最後に小さな峠を越えると、
いきなり街へ入り込む。
繁華街の駅で、半分位の乗客が降りる。
運転手が、
「お前も降りるか?」
と私の顔を覗き込む。
確か、バスターミナルが終点の筈だ。

バスは街を通り抜けると大きな橋を渡る。
暫くして、着いたバスターミナル、インフォーメーションに人が居ない。
地図を睨んでいる内に大体読めた。
南西の方角から公州の街を突っ切って来た、
街の東北の外れにある市外バスターミナルまで来てしまったらしい。
...らしいのだ。
標示は何処も彼処もハングルで理解出来ない。、

表に出ると、歩道橋のある大通りの向こうに大きな川が平行に流れる、
錦江らしい、視界の右端と左端に橋が見える。
とすると、川の向こう側が公州の街である筈だ。
現在位置を間違えてエライ目にあった事がある。
それと、街の中央へ行くには右行きのバスか左行きか。
上り下りを間違えてエライ目にあった事もある。
これらを確認するために、売店のおばさんに尋ねるが、
全く、意思が通じない。
「ここは何処ですか?」
のハングルが必要だったワイ。

おばさんが傍らの事務所風の建物を指差す。
「あそこで聞け」
と言ってる様だ。

恐る恐る扉を押すと、
50がらみの男が怪訝な顔で私の上から下まで眺めまわす。
「此処は何処ですか?」
を手振り身振りで伝えようとしても埒が明かない。
質問を変えた。
「公山城へ行きたい」
と案内書の公山城を示す。
やや、意味が通じたらしい。
大きな地図を取り出し、猛烈に説明しだす。
「お前は今此処に居る、この川が錦江、川の向こうに見えるのが公山城だ」
そこまでは判った。
「どうやって行くの?」
を判ってもらえるのに汗茫々..

「俺に付いて来い」
と彼は歩道橋を渡り始めた。
彼はバス停で待ってる何人かの人たちに話し掛ける。
話掛けられた人は、私と彼とを交互に見る。
「この男は公山城へ行きたい、と言ってる。
誰か降りる場所を教えてやってくれないか」
と頼んでいるらしい。
中年の男が、
「俺が教えてやる」
と引き受けたようだ。
彼は振り返りながら歩道橋を戻って行った。

バスに乗り込むと直ぐ、中年男は運転手に何か言っている。
「俺は前で降りてしまうが、あの日本人に公山城で降ろしてくれ」
と頼み込んでいるようだ。
韓国語は全く判らないが言ってることは何となく判る、事がある。
中年男が手を振って降りた後、運転手が公山城前で降ろしてくれた。


目の前の小高い丘の中腹に公山城の城門がそそり立つ、
前の広場、目の前にインフォーメーション、
しかも、可愛い娘さんは日本語が喋れる。
やれやれだ。

案内書にある宿を確かめると、
「そこはちょっと遠いいです。この近くは旅館街です。
手頃な旅館が沢山有ります。
あの温泉マークの付いているのは、みな、旅館です」
彼女の指差す方角に温泉マークが乱立している。

一番近い旅館に入る。
TV、冷蔵庫、空調、タブ付き風呂、シーツも白い。





宿が決まればこっちのものだ。


まず、公山城に登る。
城門は真新しい。



公州は、扶余へ移る前の81年間、百済第三番目の王都として栄えた。







公山城は王宮跡と言われているが確たることは詳らかではないらしい。
転々と王都を変えた百済王朝の栄枯盛衰を偲ぶ。
頂上から眺めると、眼下に錦江、背後に細長い盆地、
交通と戦略の要地であった事が覗える。
古い城壁の上に格好の散歩道、三々五々、人と行き逢う。







格好からして土地の人達だ。


一見、ローマを思わせる石門をタクシーで潜り5分もすると、



宋山里古墳群。





現在、大規模な工事中で、ただただ、土饅頭を見るのみ、
この土饅頭のどれもが百済王の墓なのだ。
土饅頭の向こうに山々に囲まれた公州の街が小さく纏まっている。



入れ口の事務所のようなところの女性が話掛けてきた、日本語だ。
公州での狙いは、公山城、宋山里古墳群、そして、明日観る予定の公州博物館。
その他の見所を尋ねると、
彼女は机いっぱいに地図を広げ説明しだした。
公州郊外には国立公園をはじめ名所旧跡が多い。
民族劇やパンソリの博物館も興味を惹くが、今日は月曜日、
残念ながら、どの博物館も休館なのだ。

時間や交通の便、費用などを考えていたいたのだろう、
暫く、頭を抱えていた彼女が最後に推薦してくれたのは、
甲寺。

例によって、彼女は要所要所の注意点、行き方、
更に、何かあった時の質問事項の幾つかをハングルで書いてくれた。
更に、自分の名前と電話番号まで...



彼女のメモを、タクシー、バスに示すと、
すんなり甲寺に着いた。
長い参道に人影は疎らだ。





何回か引き返そうと思うくらい長い坂道、汗が滴り落ちる。

420年創建というから相当の古寺だ。












折角の古寺なのに手入れが行き届き過ぎてる感がある。
本殿は慶長の乱で焼失し、直ぐ再建、約300年後に修復とある。
日本国内を歩いても、あちこちで、○○の乱で焼失、○○の変で焼失、
等の寺に出っくわす、そんなのも歴史上の出来事として、頷くだけだが、
異国でこのような標示を見ると心が痛む。
それにしても、こんなところにまで戦禍が及んでいたのには驚く。

私の少年時代の憧れの人物は加藤清正だった。
丈の長い兜を真似て新聞紙で作り墨で塗りたくったものだ。
特徴の有る十文字の槍、虎退治の雄姿、
当時、清正は楠正成と並んだ子供たちのスターだった。
不思議と人を殺めたイメージは無い。
その清廉潔白、忠臣愛国の精神に見習わなければと本気で考えていた。
戦後、清正の資料を漁ったが、日本歴史上の人物としての影は薄い。
教育は恐ろしい。
当時なりのメディア力なのかも知れない。
今の日本で、加藤清正の名前を知っている若者、子供たち、
何人居るだろうか。

参道に茶屋が並んでいる。



その一つに座り込んだ。
客は私だけ、威勢のよさそうなお姐さんも気勢が上がらない。





ビール飲んで犬の写真撮って退散。

つづく
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